東南アジアの⾷に関するコラム



サリサリストア(sari-sari store)が路地裏から消えない訳
2023.07.31
2023年40号コラム
フィリッピン・ダバオ市内のサリサリストア
アメリカで生活すると、日本人にとって、全ての食品がビッグサイズであること実感する。マーケットでも、レストランでも食べきれず、残すことが多い。
東南アジア諸国では、全て小ぶりのサイズでむしろ日本人にとっては、1人前では飽き足らず、2つ3つを一度に食べることになる。確かに、食品のサイズは、国民の体格に合わせて、作られるのだろう。
例えば、フィリッピンは、首都マニラの裏路地にさえ、「サリサリストア」がある。(注:一説には全国で100万軒あるとわれている。)サリサリストアは、ジュース、コーラ、スナック菓子、1本単位で販売するタバコ、シャンプ-、洗剤まで様々な商品を販売している。「sari-sari」とはタガログ語で”多様な”という意味で、多様な商品を販売しているお店のことを指す。しかも、すぐ近くにまた1軒とあるのに(注:1説には国民30人に対して1軒あると言われている)どの店に行っても、全く同じように置かれており、一人分の小分けサイズで、どこも一様に同じ価格で売られている。
東南アジア諸国では、全て小ぶりのサイズでむしろ日本人にとっては、1人前では飽き足らず、2つ3つを一度に食べることになる。確かに、食品のサイズは、国民の体格に合わせて、作られるのだろう。
例えば、フィリッピンは、首都マニラの裏路地にさえ、「サリサリストア」がある。(注:一説には全国で100万軒あるとわれている。)サリサリストアは、ジュース、コーラ、スナック菓子、1本単位で販売するタバコ、シャンプ-、洗剤まで様々な商品を販売している。「sari-sari」とはタガログ語で”多様な”という意味で、多様な商品を販売しているお店のことを指す。しかも、すぐ近くにまた1軒とあるのに(注:1説には国民30人に対して1軒あると言われている)どの店に行っても、全く同じように置かれており、一人分の小分けサイズで、どこも一様に同じ価格で売られている。
我々(日本人)が幼い頃、通った駄菓子屋とサリサリストアは全く違う。駄菓子屋は子供専用のものであり、「サリサリストア」は子供から老人まで、洗剤から菓子まで必要なものをとりあえず必要な分だけ購買しに来る。近年フィリッピンでは、経済発展のおかげで、巨大なショッピングモールが開店し、また、スーパーマーケット、コンビニエンス・ストアが町のそこかしこにある。それでも、「サリサリストア」な消滅しない。これは、一体どういうわけだろうか?理由は以下の3点にしぼられると思う。
(1)フィリッピン人は、自宅か近くで、必要な物を必要な分だけ買うという、それも買いに来るのは、本人だけでは、子供がお使いで来たりする。つまり、庶民にとって、サリサリストアは使い勝手が良い点があげられる。
(1)フィリッピン人は、自宅か近くで、必要な物を必要な分だけ買うという、それも買いに来るのは、本人だけでは、子供がお使いで来たりする。つまり、庶民にとって、サリサリストアは使い勝手が良い点があげられる。
(2)次にこうしたサリサリストアは、フィリッピンの家族、一族主義の社会習慣が基盤となり、商習慣が定着しているからだ。したがって、購買する時、署名など必要なく、完全に口約束で「つけ払い」が出来る点も、これも地域家族主義の完壁な信頼関係が築けているからだろう。どうせ同じものを買うなら、昔から近くにある親戚、知人が経営しているサリサリストアで買おうということになる。
(3)次に、こうした小銭で回転させる小規模経済は、決して儲からない。いつまでやっても、一定額以上には儲かからない。「生かす、殺さず」という悪い言葉があるが、この言葉通り「最低限の儲けで、商売を維持させる」ということが、フィリッピン社会の経済秩序を維持する上で必要なものであると考えられる。
このようにして、フィリッピン人の美徳は、腹八分目に食べ、決して必要な量、質を求めないということが、子供の頃から親から子へ教育されて(叩き込まれており)庶民の考えの中に定着している。もちろん、沢山稼ぐという考えの人もいるがそれはそれで、こうした現状の社会秩序を崩壊させるには至らない。この国において、「過ぎたるは及ばざるが如し」の考えがこれからも続く限り、「サリサリストア」は永遠に不滅だろう。
(3)次に、こうした小銭で回転させる小規模経済は、決して儲からない。いつまでやっても、一定額以上には儲かからない。「生かす、殺さず」という悪い言葉があるが、この言葉通り「最低限の儲けで、商売を維持させる」ということが、フィリッピン社会の経済秩序を維持する上で必要なものであると考えられる。
このようにして、フィリッピン人の美徳は、腹八分目に食べ、決して必要な量、質を求めないということが、子供の頃から親から子へ教育されて(叩き込まれており)庶民の考えの中に定着している。もちろん、沢山稼ぐという考えの人もいるがそれはそれで、こうした現状の社会秩序を崩壊させるには至らない。この国において、「過ぎたるは及ばざるが如し」の考えがこれからも続く限り、「サリサリストア」は永遠に不滅だろう。