東南アジアの⾷に関するコラム



カンボジア・プノンペンのぶっかけ飯屋
2023.08.04
2023年45号コラム
時は今から約20年前に遡る。マレーシアに滞在していた頃、私はよく早朝の飛行機に飛び乗り、カンボジアに着くとプノンペンから、シアヌークビル、コンポンチャム、ベトナム国境まで主に長距離ローカルバスを使って、繰り返し旅していた。バスのほとんどは日本の中古オンボロバスで、余りに使い過ぎたためか、道の途中で故障し、立ち往生は当たり前。バスの運転手は整備修理工を兼務しているらしく、2~3時間後にはなんとか動きだすような状態だった。
国内は、既に、内戦は終わったものの、国連が主導する地雷除去は完璧には進んでおらず、まだ地方の田地にはいると、戦争の爪痕が残され、相当危険だった。一応幹線道路を進む限りは、舗装こそされていなかったものの、かろうじて安全性は確保にされていた。何度か、国内の地方にまで足を延ばすうちに、私は知らず、知らずカンボジアという国そのものの虜(とりこ)になっていた。
近代化からは取り残され、どこに行っても生活の速度はゆったりとしていた。産業らしき産業もまともに復活せず、内戦のせいで国は荒廃に近い状態だったが、国民性なのか、買物でも、寺院でも、宿舎でも、人々は屈託の無い笑顔を浮かべ、外国人を親切に迎えいれてくれた。
ある晩、私は試しに町のディスコに行ってみたが、そこではカンボジアの伝統的な音楽が流れ、民族着を纏った若い男女が丸くなって、超ゆったりとしたダンスを踊り、日本の盆踊りより遥かにクラッシックな雰囲気だった。日本で言えば、時が私の幼い頃で止まった感じだった。どこに行っても信じられないほど物価は安く、当時の東南アジア諸国の他の国からも、まるで取り残されたような、極めてワンダーな世界に私の魂は完全に魅せられてしまった。
国内は、既に、内戦は終わったものの、国連が主導する地雷除去は完璧には進んでおらず、まだ地方の田地にはいると、戦争の爪痕が残され、相当危険だった。一応幹線道路を進む限りは、舗装こそされていなかったものの、かろうじて安全性は確保にされていた。何度か、国内の地方にまで足を延ばすうちに、私は知らず、知らずカンボジアという国そのものの虜(とりこ)になっていた。
近代化からは取り残され、どこに行っても生活の速度はゆったりとしていた。産業らしき産業もまともに復活せず、内戦のせいで国は荒廃に近い状態だったが、国民性なのか、買物でも、寺院でも、宿舎でも、人々は屈託の無い笑顔を浮かべ、外国人を親切に迎えいれてくれた。
ある晩、私は試しに町のディスコに行ってみたが、そこではカンボジアの伝統的な音楽が流れ、民族着を纏った若い男女が丸くなって、超ゆったりとしたダンスを踊り、日本の盆踊りより遥かにクラッシックな雰囲気だった。日本で言えば、時が私の幼い頃で止まった感じだった。どこに行っても信じられないほど物価は安く、当時の東南アジア諸国の他の国からも、まるで取り残されたような、極めてワンダーな世界に私の魂は完全に魅せられてしまった。
プノンペンの街中のセントラルマーケットは、近隣諸国から運ばれた商品がどこもかしこもあふれており、かつてポルポトの資金源ともなったまるで血の如く毒々しく紅いルビーが、多くの宝石店で原石のまま売られていた。何度目かにプノンペンを訪れた時、丁度正月にあたった。そのため、車の騒音なども無く、静かな早朝であった。近くの小さな寺院へ行くと、正月の祝いから子供達が色とりどりの鳥を売っていた。私のそばにも鳥籠を携え、近寄ってきた。周囲の人達を見回すと、鳥の支払いを済ませた後、各々願い事を言いながら、鳥籠を開放していた。私も、早速中に凡そ10羽は入った鳥籠を1つ購入し、この国の安寧と平和を切に願って、鳥達を一斉に大空に向けて放った。空は青く、蒼く晴れ渡り、鳥達は全ての願い事を嘴にはさむかのように、自由な世界へと大きく羽を伸ばして飛んでいった。
このように市内のどこに行っても日本にはない珍しいものばかりで、私は、飽きることなく市内を歩きまわった。食べるのも通常のレストランばかりでなく、市民の生活を体験するために、あちらこちらと食べ歩いた。例えば、カンボジア日本友好橋(チュロイチョンバー橋)の脇の広場(注:この広場は既にない)では夕方になると市民が夕涼みにやってくる。広場に敷かれたビニールシートに、靴墨をいれるような粗末な箱に、ビール、ジュースやら簡単なおつまみをいれ、土地のおばさん連中が座って、休んでいかないと手招きする。川下から吹く風が心地良い。座って、ジュースを飲み、支払うと驚くほど安い。暗くなるまで、懐中電灯のあかりを頼りに、風に吹かれている時間は、まるでカンボジア人になったかのような気分に浸った。また、セントラルマーケットのすぐ脇に、「ぶっかけ飯屋」と俗称されるドアも窓も無い、屋根だけのレストランがあった。店はいつも満席状態で、日本人の長期滞在の若者の多くは、安いので、ここでぶっかけ飯をよく食べていた。たまたまある晩、隣り合った東北出身の20代後半の男性と話しがあったので、食後、彼と飲みに行くことになった。
このように市内のどこに行っても日本にはない珍しいものばかりで、私は、飽きることなく市内を歩きまわった。食べるのも通常のレストランばかりでなく、市民の生活を体験するために、あちらこちらと食べ歩いた。例えば、カンボジア日本友好橋(チュロイチョンバー橋)の脇の広場(注:この広場は既にない)では夕方になると市民が夕涼みにやってくる。広場に敷かれたビニールシートに、靴墨をいれるような粗末な箱に、ビール、ジュースやら簡単なおつまみをいれ、土地のおばさん連中が座って、休んでいかないと手招きする。川下から吹く風が心地良い。座って、ジュースを飲み、支払うと驚くほど安い。暗くなるまで、懐中電灯のあかりを頼りに、風に吹かれている時間は、まるでカンボジア人になったかのような気分に浸った。また、セントラルマーケットのすぐ脇に、「ぶっかけ飯屋」と俗称されるドアも窓も無い、屋根だけのレストランがあった。店はいつも満席状態で、日本人の長期滞在の若者の多くは、安いので、ここでぶっかけ飯をよく食べていた。たまたまある晩、隣り合った東北出身の20代後半の男性と話しがあったので、食後、彼と飲みに行くことになった。
奥田ひさし(仮名)君は、会社勤めをやめて、東南アジアを旅しているとのことで、この旅が終われば日本で老舗旅館の跡継ぎになるそうだ。アジアの世界を見て、これからの人生を進む上で何かヒントが得られれば良いと言っていた。奥田君とは、その後も生野菜たっぷりのカンボジア料理を出す中華風レストランで食事し、フレンチ風のバゲットサンドイッチの朝食をカフェで食べ、これからの将来について話した。やがて、日本での再会を約して、私が先にカンボジアを去った。数年後、日本に帰国したおり、奥田君に連絡するも、連絡が返ってこない。どうしたものかと、彼の老舗旅館に連絡したが、彼の父親から連絡があり、彼は私と別れた後、帰国したが、その直後から訳の分からない病気に罹り、急逝したとのことであった。
今から約4年前に、私は、ベトナムのホ・チミン・シティから長距離バスに乗り久しぶりに、プノンペンまで往復した。プノンペンは、だいぶ以前とは変わり、それなりに発展はしていた。何よりも庶民の生活の速度が以前とは比べられないくらい速くなっていた。例の「ぶっかけ飯屋」は、もう跡形もなく消えていた。ここで、将来への大きな夢を抱きながら、若くして早逝した徳田君に思いをはせた。正月の時期ではなかったので、籠に入った鳥は売っていなかった。が、私の心の内で、大空に向けて解き放った多くの鳥たちが、プノンペンの発展と喧騒の渦の中に巻き込まれていくような錯覚に陥った。まるで「発展」というのは、何かが消えた跡に、新しい何かが始まることを教えてくれているかのように。
今から約4年前に、私は、ベトナムのホ・チミン・シティから長距離バスに乗り久しぶりに、プノンペンまで往復した。プノンペンは、だいぶ以前とは変わり、それなりに発展はしていた。何よりも庶民の生活の速度が以前とは比べられないくらい速くなっていた。例の「ぶっかけ飯屋」は、もう跡形もなく消えていた。ここで、将来への大きな夢を抱きながら、若くして早逝した徳田君に思いをはせた。正月の時期ではなかったので、籠に入った鳥は売っていなかった。が、私の心の内で、大空に向けて解き放った多くの鳥たちが、プノンペンの発展と喧騒の渦の中に巻き込まれていくような錯覚に陥った。まるで「発展」というのは、何かが消えた跡に、新しい何かが始まることを教えてくれているかのように。